2333、風土の万葉

2333、風土の万葉
名張の山を今日か越ゆらむ」の名張の山

     はじめに
 風土論の観点から見た、万葉集の歌の「名張の山」とは何か、いうことだが、和辻の風土論を大きく展開させたオギュスタン・ベルク氏の風土論の法法の一部①に教えられたものである。自然と文化との関連と言うのがベルク氏の一つ方法だが、その文化を万葉の和歌に置き換え、自然を地理的な条件に置き換えて考察した。

 対象とする歌。
1-43  當麻眞人麻呂妻作歌
吾勢枯波 何所行良武 己津物 隱乃山乎 今日香越等六
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ   (4-511に類歌がある)

 この名張の山についての地理考証は既に述べた(サイト「man-youbunkoの日記」で「名張」を検索してほしい)。そこで言ったように名張に越えるような山はない②のに、歌では、はっきりと、山を今日越える云々と詠んでいる。山がないのに山を越えるというのはどういうことか。
 43番歌以外に名張を詠んだ歌を見ておく。

1-60    長皇子御歌
暮相而 朝面無美 隱爾加 氣長妹之 廬利爲里計武
宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ

8-1536    縁達師歌一首
暮相而 朝面羞 隱野乃 芽子者散去寸 黄葉早續也
宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早繼げ

長皇子のは知り合いの女性が行幸からいつまでも帰らなかったのは、長く名張で滞留していたのだろうというので、大和の近くという安心感で帰還を急ぐ必要がなかったのだろうが、「なばり」という地名も関係あるかとちょっとふざけたのだから、寂しい名張の「山」は必要ない。ただの地名の「名張」でよいということである。縁達帥の場合そこに住んでいるか、しばしば往来しているかで、そうなると、大和から見たら山でも、住民の目からしたら野なのだから、正直に地形をそのまま詠んでいるわけである。萩や黄葉(たぶん雑木)などは名張らしい植生で、大和の野とも似ている。

大和の居住民から見た名張の山
 43番歌で名張の山というのは、そこに住んでいない人(大和平野南部の飛鳥あたりの人)から見ての山と言うことが出来る。大和平野の住民からすれば、名張地方は、事実としては、山とは言えないのに(名張山とか名張丘陵といった固有名詞はなく、水田になった小盆地と散在する丘陵や小山の集団である)、山と呼べる地方であり、大和平野を出て、伊勢の平野や海に出るのに越えなければならない山と見なせたのである。
 次ぎに名張の表記が、万葉集では、「隠」で一貫しているのを見ると③、これは大和平野の住民としての万葉歌人の認識だとわかる(特に天武朝)。初瀬や宇陀の山々の向こうの隠れた土地ということであり、名張の住民に取っては、別に隠れた土地ではなく、書紀にある「名墾」という表記からすると、「な+はり」という語構成で、開墾した土地ということだろう。だから大和中心的な思考によって、大和の万葉歌人は、名張を山林原野の多い「隠れた土地」と認識していたと思われるのである。淋しい山間地という印象もある。山城にしても、飛鳥・奈良時代は山背と表記されたのだが、言うまでもなく、奈良山の向こう側(後ろ側)という大和中心的な認識がある。
 だいたい、大和平野に住んでいた万葉歌人が、名張へ行ったことがある人も、そうでない人も(多分非常に少ない)、「名張の「山」」と認識し、「隠(なばり)」という大和中心的な表記をしていたと言うことは、自分たちの住む土地を誇る気持が裏にあったということであろう。そこには都があったわけだが、また広大な平地や農地があった④。その広大な平地を彼等は自覚していたと思われる。

名張の山と対照的な大和平野
 奈良盆地、東西約16キロ、南北約30キロ、面積約300平方キロ(平凡社奈良県の地名』)。
京都盆地は、奈良盆地とほぼ同じだが、これは巨椋池で中断されるので、巨椋池以北だけで見るなら奈良盆地より狭い。今の大阪平野は、面積的には奈良盆地の5倍強あって広大だが、古代は、河内湖があり、淀川、猪名川武庫川河口も今より内陸に陥入していて、一連の平坦な陸地としては、奈良盆地ほどの広さがない。大和人には珍しい海面の広さの方が印象的であった(草香山越えの歌など)。播州平野は約400平方キロ、奈良盆地より少し大きいが、川による三角州などで大きくなったもので、また丘陵部も目立つ。近江盆地は670平方キロ、奈良盆地の倍以上あるが、琵琶湖や丘陵によって分断されており、連続した平地としての大きさはあまり感じられない。
ということで、近畿以西の古代にあっては、奈良盆地が一番大きな平地であったと思われる(少なくとも当時の都の人たちはそう思っていただろう)。神武天皇が青山が周囲を囲む国の最中といって都したという説話もうなづかれるのである。
万葉集でも、2番歌、舒明天皇の国見歌で、「国原は煙立ち立つ」と歌われているが、この国原というのも、奈良盆地の広大さをいうものであろう。具体的には、「三宅の原」(13-3295)、長屋の原(1-78題詞)、浄見原、真神の原(2-199、他)、藤原、藤井が原(2-50)、竹田の原(4-760)、百済の原(2-199)がある(異名同所らしいものも1つとした)。
 これらを今の地名で見ると、橿原市東竹田町から、田原本の西竹田町にかけての寺川一帯、さらにその下流三宅町から川西町にかけて、またその西方の、曾我川や葛城川中流百済、そして、初瀬川から布留川にかけての田園地帯がある。これは今の奈良盆地中南部一帯である。出ていないのは、曾我川、葛城川の上流一帯、佐保川流域の盆地北部である。景観としては、河川の堤防の樹木や、神社林、水鳥の舞う池沼などはあるものの、だいたいは水田の広がる広々とした平野であり、国原であったであろう④。
大和以外では、大阪の「味経の原」、「依網の原」、京都の「筒木の原」、「阿後尼の原」、「三香の原」、「布當の原」、三重の「五十師の原」、兵庫の「大海の原」、「印南国原」、滋賀の「勝野の原」、岐阜の「和射見が原」、福岡の「湯の原」、「故布の原」、埼玉の「於保屋が原」がある。大和の8が突出していて、次ぎに多いのは京都の4で、あとは1つか2つ。詠まれた歌の多少にも拠るが、家持関係の北陸、人麻呂のいた石見や瀬戸内海航路に沿う中国四国(播磨を除く)、行幸のあった南海は皆無で、東海は1つ、東山道は2つ、多量にある東歌にわずか1つ、大宰府のあった九州でも2つで少ない。やはり平野の少なさという風土的なものがあろう。当時の畿内は特に平野部(水田地帯)が多かったのである。
 話がそれた。大和以外にも少ないながらちらほら、~原、はあるが、だいたいは、大和から旅してきた官人たちの、観光気分で褒め称えたような歌であった。大和の場合は、土着あるいはそこに長く居住している人の感覚で、~原、といったものだろう。つまり、奈良盆地はいいところで、平坦で東西南北の目印の山も明瞭だから、歩いて何キロも簡単に移動できるし、舟便もあって交通の楽な原だと認識していただろう。「名張の山を今日か越ゆらむ」と歌った、当麻の麻呂の妻も、そういう広大な平原地帯(おおかたは水田)の風景や、そこでの生活に慣れ親しみ、毎日山に登ったり下りたりするような、森や林や谷川を越えていくような、近くにいくらでも山があり、山の地形やそこの動植物に親しむような、そういう生活についての知識は少なかったと思われる。もちろん彼等にしても、吉野や宇陀あたりの山間地帯から平野部に出てくる人々からその生活圏の話を聞いたり、他人の経験談を聞いたり、自らそういう所へ行くことがあったりするだろうが、そういうものが身に付いた経験にならないことは言うまでもない。当麻の麻呂の妻にしても、名張のように大和のすぐ近くの土地の場合、人から聞くことも多いだろうし、自分で行った経験があったかも知れないが、よほど地理に興味でも持たないかぎり、その土地(風土)を正確に理解し表現することは困難であろう。

ところで、彼等の山についての認識はどのようなものであったのだろうか⑤。犬養孝前掲書の「万葉全地名の解説」によって、大和の山を分類する(山地の比定で私見と違うものがあるが)。普通名詞的なものは省く(三諸の山など)。異説のあるのも含む。
1ある地の山地又は丘陵の総称
 イ、今なら~谷という地形、泊瀬山、巨勢山、平群の山
 ロ、大きな山地や一塊の丘陵、石村の山、振山、吉野の山、奈良山、佐紀山、佐保山、黒髪山竜田山
2ある地にある山(山頂や稜線を持つ山らしい山)
 猪養の山、忍坂の山、倉橋山、多武の山、跡見山、三輪山、巻向山、弓月が嶽、痛足の山、引手の山、南淵山、細川山、矢釣山、伊加土山、香具山、耳梨山畝傍山、葛木山、亦打山、三船の山、象山、御金の嶽、水分山、高城の山、青根が峯、耳が嶺(耳我の嶺)、宇治間山、去来見の山、朝妻山、二上山春日山、羽易の山、御笠山、高円山生駒山
後者にしても今言うような、三角点や頂上があり、登山道もあるような山らしい山はそう多くない。
忍坂山、倉橋山、跡見山、三輪山、巻向山、香具山、耳成山畝傍山葛城山二上山、三船山、春日山、御笠山、高円山生駒山は、山らしい山と言えるが、三輪山、巻向山、畝傍山(10分もあれば登れるが)、葛城山二上山生駒山以外は、登山の対象という感じがしない。非常な低山で、山と言えば言えないこともない程度であったり、大きな山の尾根のちょっとした高みで、独立した山体らしいものを持たない山だったり、地元の人にだけ識別できる程度であったり、である。これで再分類すると、
イ、山らしい山、忍坂山、倉橋山、多武の山、跡見山、三輪山、巻向山、香具山、耳成山畝傍山葛城山二上山、三船山、春日山、御笠山、高円山生駒山
ロ、山らしくない山、伊加土山、亦打山、三船の山、象山、御金の嶽、水分山、高城の山、青根が峯
ハ、地元の人にだけ識別できる山、猪養の山、弓月が嶽、痛足の山、引手の山、南淵山、細川山、矢釣山、朝妻山
ニ、所在が不明瞭な山、耳我の嶺(耳が嶺)、宇治間山、去来見の山、羽易の山
名張の山の場合は(大和ではないがそれに準じる)、2のグループに入らないから、1の方だが、1を見る前にもう少し考えると、作者当麻麻呂の妻の場合、2ロの伊加土山ぐらいは知っていただろうが、亦打山は紀伊行幸にで同行しない限り知らないだろうし、それ以下の吉野方面のも、吉野行幸山岳仏教にでも関係しない限り、知ることはないだろう。2ハについても、あまり人の行くようなところではないので、そこを生活圏にしていないかぎり知ることはないだろう。
結局、当麻麻呂の妻が、大和平野(たぶん中南部)の住民として、普通に思い浮かべる山と言えば、葛城山二上山生駒山春日山三輪山、倉橋山、多武の山(多武峰)、大和三山といったところで、大和平野中南部の住民なら日常的に見慣れた山である。北部の住民の場合は、生駒山春日山高円山、矢田丘陵を除いて、離れすぎており、900㍍から1100㍍の高度のある金剛山葛城山多武峰以外は、ほとんどどれがどれとも分からないだろう。
1の方では
イ、今なら~谷という地形、泊瀬山、巨勢山、平群の山
が目を引く。犬養氏の解説では、初瀬川、巨勢川(曾我川)、平群川の両岸の山々を指すとあるが、これは今なら、平群谷とかいうべきだ。平群の場合など、右岸は生駒山地、左岸は矢田丘陵で、今なら、両方合わせて、平群の山、と一語で言うことはできない。つまり万葉においては、今、~谷、というところを、~山、と呼ぶことがあったということである。平野部から切り離されて、人家もほとんどなく、森林などの優先する自然の豊かな所、そういうところを、~山、と言ったということだろう。地形ではなく、景観に重点を置いた地名と言える。当麻麻呂の妻は、これら万葉に詠まれた~谷のような地形を全く見たことがなかったとしても、長谷、巨勢、平群といった大きな地名で、~山というところは、住民がほとんどなく自然の豊かな寂しい所で、谷間のような地形だとぐらいは分かったはずである。その程度の情報は大和平野に暮らす住民の基礎的な知識であろう。
ただし、名張の山は、谷間のような地形ではない。宇陀川、青蓮寺川(上流は曽爾川)、名張川の合流するあたりで、山は非常に低いから、谷という印象はない。川の沿岸に低い丘陵はあるが(伊賀神戸から伊賀鉄道に乗れば見える上野までのあいだの右側の山林などがそれだ、自動車で行っても同じような地形だ)、全体として丘陵地帯でもない(上野一帯は水田が多い)。遠くを見れば、布引や、奧宇陀の山地、大和高原などが沢山見えるが、名張一帯はそうではない。
だから、ロの、石村の山、振山、吉野の山、奈良山、佐紀山、佐保山、黒髪山竜田山などとは、ちょっと違う。これらのうちの、石村、振、佐紀、佐保、黒髪、竜田などは、狭い範囲の丘陵性の山で、名張一帯とは地形が違う。ということで、吉野の山、奈良山が、大きな地名を冠していることからも、似ているが、吉野は余りにも大きい。奈良山は、川が無く自然も豊かとは言いにくい。吉野の規模を小さくし(それも、大淀、下市から東吉野にかけての北部一帯)、奈良山の規模を大きくしたら、名張のようになるだろう。結局、この1のロの二つが、名張の山の特徴に一番近いと言う結果になる。ということは、名張の山を分類したら1のロになる。これは1のイの属性も持っている。頂上らしい頂上もない、ただ森林が多くて一面の平地ではない、寂しいところ、そういうところを古代は「山」とも言ったということだろう。
今の感覚から言うと、「名張の山」という山など存在しない。せいぜい名張の町の郊外の里山と呼ぶべき地域だ。当麻麻呂の妻は、名張へ行ったことがあるかないか、それは分からない。夫が持統の伊勢行幸に同行しているのだから、その途中にある名張というのがだいたいどういう所かということは、行ったことがなかったとしても、情報として聞いていたであろう。それに、前にも言ったが、名張は、大和の隣、更には宇陀郡の続きで、大きな障壁もなく、簡単に往復できるから、だいたいどういう土地かと言うことは、作者を含めた大和平野の大人達には共通理解があったであろう。だから、作者が「名張の山」と詠めば、読む方も聞く方も、あの山間の寂しい山林原野の広がるところだと思うであろう。
だから、「名張の山を越える」というのは、大和と伊賀の境の山(明瞭な頂上とある程度の比高があって名張山などと呼ばれるもの、あるいは連山や山地)を越えて大和とは違う風土の東国伊賀に入ることではない。伊賀の山林原野を横断して、大和とは異質の風土の国伊勢に入ることなのだ。名張はまだ、大和(特に宇陀の高原)と大して変わりのない土地なのである⑥。その大和らしさの残る最後の土地を出て人気のない寂しい土地を、夫は今ごろ伊勢に向かって越えているだろうかというのである。伊勢に入ってしまえば、石上麻呂の歌ったように、国は遠く、間を隔てる山も高くて、心の通い合いも薄れるのである。

名張を詠んだ他の歌。

1-43の歌では、往路か帰路かということが少し問題になった⑦。上述してきた所から見れば、往路と見るしかない。帰路の場合、青山峠を越え伊賀郡の阿保を越え名張郡に入った所で、半分大和に入ったようなもので(実際室生の山々が見え出す)、今ごろどこを通っているだろうか、今日あたり名張の山を越えているだろうか、という感慨は起こらないだろう。すでに宇陀郡近くまで来ているものを、そこを越えたら大和だなどと焦点のずれたことは言わないだろう。山深く険しい峠越えなら、一志郡から青山峠を越える時点で経験している。大和から見れば名張は寂しい山間の土地だが、伊勢から来れば、険しく人煙稀な青山峠を越えて大和も近く、一安心するようなおだやかな土地なのだ。だから60番歌は帰路とみるべきだ。


①「風土の日本」ちくま学芸文庫、1992.9.7。「風土学序説」筑摩書房、2002.1.15。「日本の風景・西洋の景観」、講談社現代新書、1990.6.15。

名張市には、黒田川(宇陀川)沿いの狭小な水田地帯と名張市街地の周辺、美旗新田あたりの小さな盆地以外には水田地帯はない。残りは大体丘陵性の山野だが、名張市街地で標高200㍍ほどあり、周囲の丘陵は標高250㍍前後(一部に300㍍を越すのもあるが)で、比高はわずかである。宣長の菅笠日記にもあるが、青山峠を越え、登山口の伊勢路に出て、長田川沿いに開けた阿保から、かつての上野市との境の峠を越え、すぐにまた名張市に入って、美旗の狭い水田を越し、蔵持まで、まるで雑木林のような低い丘陵で、人家がなく、淋しい感じがする。この初瀬街道沿いの蔵持から阿保の手前まで、だいたい当時の名張郡だから、「名張の山」と言えよう。名張で一泊した翌日(歌の今日)越えるというのだからそこが適当である。距離的には、伊勢国境の青山峠まではまだまだだから、そこまで「名張の山」としてもよいが、阿保は伊勢からの初瀬街道と、長田川(伊賀川)沿いに上野に通ずる道との分岐点であり、伊賀神戸に近く、伊賀郡の中心部であり、上野の圏内(伊賀神戸から長田川にほぼ併行して伊賀鉄道が走る)だから、もう「名張の山」とは言いにくい。こういう地理は京に止まった作者達も知っていたのであろう。

③『日本書紀』大化二年(646)春正月…宣改新之詔曰、…。其二曰、初修京師、置畿内國司…。凡畿内、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、【兄、此云制。】西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿内國。
同、天武天皇元年(672)六月廿四日。及夜半到隱郡、焚隱騨家。
同、天武天皇元年(672)九月十一日。宿名張
同、朱鳥元年(676)六月廿二日。名張厨司災之。
以下『六国史』では、「名張」が四回出て、「名墾」「隠」は出ない。書紀では壬申の乱での挙兵のときは「隠」で、飛鳥への帰還の時は「名張」になり、以下名張に固定したようだ。わずか3か月で表記が変わったのは何故か。乱のときに寄与する所があって、好字二字に替えたのか、それは分からない。大化の時の「名墾」が古くからの表記だとすれば、乱挙兵時に新しく「隠」の表記で認識され、万葉集はそれだけを受けついだが、壬申の乱勝利後の天武は「名張」の表記に替えたということかも知れない。なお古事記では地名「なばり(名張、名墾、隠)」は出てこない。和名抄は、郡名郷名ともに名張

④古島敏雄『土地に刻まれた歴史』岩波新書、1967年10月20日、の附録、秋山日出雄氏編「大和国条理復元図」を見ると、大和平野の全域、隅々にまで条里制が施行されている。ただし、古島氏も言われるように、いつこのような条里制が施行されたのか明瞭ではないようだ。だいたい律令制の確立した頃ということだから、飛鳥時代の終わりから奈良時代にかけてできたらしい。その全部が水田に成ったわけではなく、盆地中央部などは、湿地状のところもあったらしい。竹田の原の一部と思われる橿原市中町には、寺川の旧河道らしい池が今も残っている。初瀬川なども洪水で河道の変わることがあったらしい。

⑤参考として、岩波古語辞典、「山」、《「野」「里」に対して、人の住まない所》①地表の極めて高く盛り上がっているところ。通例、丘より高いものをいう。②物事の絶頂。峠。③陵墓。④山をまね似て作ったもの。築山。⑤特に、比叡山また延暦寺の称。⑥山に籠もって行なう仏道修行の生活。⑦鉱山。⑧山形に飾った造り物。⑨「山鉾」の略称。⑩天然痘の症状で、表皮が豆大に隆起したもの。
たくさんの意味があるが、「名張の山」に当てはまるような意味はどこにもない。せいぜい「人の住まない所」が当てはまる程度だが、それだけでは山の意味として充分ではない(墓地、廃屋、川原、海岸なども人は住まない)。それに、平群の山、巨勢山、初瀬の山などは人も住んでいるし、里もある。山林が多く住民が少なく山がちの淋しい土地で、そこの住民以外のものが呼ぶ称といった定義でも下したいところだ。広辞苑(第6版)もほぼ同じ。比喩的な項目が15に増えている。日本国語大辞典もほぼ同じだが、一つ特異なものがある(新明解、大辞泉にも似た説明があり、特に「時代別国語大辞典上代篇」は詳しい、)。「2、特に植林地、伐採地としての山林。種々の産物を得たり、狩猟したりするための山林。例として、万779「板葺の黒木の屋根…」」。これは魅力的な説だが、奈良山などはその条件に当てはまらないようであり、名張の山の場合、地元の人ならそういう意味で呼べそうだが(薪炭の採取とか)、遠く離れた大和平野の、それも利害関係がなく、自分の所有する山でもない人間が、そういう意味で呼ぶかどうか疑問だ。

⑥伊賀大和の国境に「名張の山」と呼ばれるような山があり、そこを越えて異境の風土である東国の伊賀に入るとする説がちらほらある。
沢瀉注釈、名張市の西、大和境の山をさした…。
新潮集成、名張の山を大和伊賀国境の山とする。
全注(伊藤博担当)、名張が大和の東限で、この地の山を越えると異郷伊賀の国だったからである。
新編全集、名張の山、名張市西方の山をいうか(附録)。
釈注、「名張」は畿内の東限で、この地の山を越えると異郷の伊賀の国になる。
稲岡和歌大系、名張の山を大和伊賀国境の山とする。
以上6つの注釈書にあるこのうち、集成、全注、釈注は、伊藤博氏のもので、説にぶれはないが、名張の山を越えると異境の伊賀の国になるなどというのは、全く地理を知らない説である。稲岡説もほぼ同じ。沢瀉説、新編全集説、は不明瞭であるが、名張市の西に見える山(犬養孝「万葉の旅」に載る写真もそういう山だろうが、これは黒田の西南に連なる断層崖の山地、つまり元の室生村笠間と名張市の平地部との境の山で、最高点は茶臼山である)といっても、それを越える道程ではないから、結局、伊藤、稲岡、沢瀉、新編全集の説はすべて成り立たない。持統伊勢行幸ルートで、大和伊賀の国境となるのは、元室生村の宇陀川が狭い谷間を出るあたりであって、山裾のちょっとした上り下りはあっても、国境の山のようなものはない。だから国境の山を越すこともない。これについては、門井直哉氏の「古代日本における畿内の変容過程-四至畿内から四国畿内へ-」(歴史地理学54-5、2012.12、ただしネット上のテキストによる)にある、図7「初瀬街道沿いの標高変化」が参考になる。西峠からしばらく榛原の高原上の土地で、鳥見山、額井岳の山麓だが、戒場山(かいばさん)の麓の篠畑が、もと榛原町と室生村の境でちょっとした坂になっている。そこから室生川と宇陀川の合流点の大野(室生ダムの堰堤から少し行ったところ)に向かって急降下し、そこから再び少し登ったあとは奈良三重県境の三重県名張)側の最初の町安部田の鹿高(かたか)神社に向かって緩やかに下っていく。つまり県境に越えるような山はないが、強いて言えば、室生の山とでも言うしかないだろう。なお、もし、大和伊賀の境に名張山と呼べるような山があったら、既述の畿内国の四至のところで、畿内の東限は名張の横河(夏見の西の名張川とするのが通説)とせず、名張山としたであろう。北は合坂山、南は背の山というように山が境界となっている。明石の櫛淵は、はっきりしない。門井氏は垂水区の海岸沿いに櫛のような入江があって、そこが櫛淵だとされる。私も、垂水区の塩屋で一夏過ごしたことがあるが、確かに山は海岸に迫っている。櫛淵が境界といっても、実際はその山が境界だ。入江があればさらに陸路は険しくなろう。そういう中でなぜ名張は山ではなくて川なのか。要するに事実として山が無く、名張川が、実質的に大和と伊賀(畿外)との境界だったからであろう。名張川までは大和との親近性が強いと門井氏も言っている。だから名張で一泊した翌日(歌の「今日」)、その名張から阿保までの丘陵地(名張の山)を夫は越えているだろうというのである。

⑦燈、總釈、菊池精考、金子評釈、窪田評釈、武田全註釈、佐佐木評釈など、燈以外は、時期的に集中して帰路(復路)説で、特に、金子評釈「必ず復路と見るべきである。」武田全註釈「勿論帰途の作」と強調している。それ以前に、往路説、山田講義「往路に詠んだ。」があり、以後に沢瀉注釈の往路説がある。沢瀉以降は、往路復路を問題にしていない。山田、沢瀉がなぜ往路としたのか理由は不明、復路説も燈以外は根拠を示さない。燈は「〇今日香越等六 この今日といふ事、麁にみまじき也。かくいふ故は、今日だにいまだなばりの山をも越ずは、夫が歸期いと待遠ならむ。とその程をまちくらさむ事、いかにくるしからむとの心をもたせてよめるなれば也。されば、此一首の眼なりとしるべし。」と言う。長い旅行も、あとは今日の名張の山越えさえすれば、日暮れ頃には帰ってくるだろうという心のはずみが歌から感じ取れるとでもいうのだろう。しかし、名張の郡家あたりで一泊したら、すでに名張の山を越えているわけで、そこからの今日の帰路にはそんな山はないのだから、これは無理である。山田説はなぜ往路としたのかよくわからない。沢瀉説は、大和伊賀の境(名張の西方)にありもしない名張の山を比定しているのだから、その点からして無理である。たとえあったとしても、出た日に越えてしまうものを、今日こそは越えるだろうというのも腑に落ちない。昨日出たが、今日あたりは、いよいよあの名張の山を越えるのだろうと思いやったわけだ。

参考、本居宣長「菅笠日記」より。以下、本居宣長記念館のHPによる。
1日目、松坂-伊勢路
2日目、伊勢路-榛原
3日目、榛原-千股(予定では吉野山までだった)、4日目、千股-吉野、5日目、吉野山一帯、6日目、吉野-明日香、岡、7日目、明日香一帯、8日目、見瀬、今井、八木、大神神社、初瀬、榛原、9日目、榛原-伊勢本街道で、曽爾、御杖方面を経由し、石名原(もとの美杉村奥津の手前)、10日目、石名原、奥津、北畠神社、堀坂山などを経て松坂。
これの二日目で、伊勢路の次の阿保から七見峠を越えて名張手前の蔵持までの、「名張の山」を越えている。持統伊勢行幸では往路復路ともに名張で泊まったと思われるのだが、ここでは往路は、伊勢路で泊まり、翌日午前中に名張の町に達し、そのあと多武峰経由で千股(上市の少し手前)まで行き、復路は榛原から南東方向に向かい、名張を経過していない。その点は参考にならない。
二日目の「名張の山」のあたりの原文。
いせぢより此驛迄一里也。さてはねといふ所にて。又同じ川の板ばしを渡る。こゝにてははね川とぞいふなる。すこしゆきて。四五丁ばかり坂路をのぼる。この坂のたむけより。阿保の七村を見おろす故に。七見たうげといふよし。里人いへり。されどけふは雲霧ふかくて。よくも見わたされず。かくのみけふも空はれやらねど。雨はふらで。こゝちよし。なみ木の松原など過て。阿保より一里といふに。新田といふ所あり。此里の末に。かりそめなるいほりのまへなる庭に。池など有て。絲桜いとおもしろく咲たる所あり。
  糸桜くるしき旅もわすれけり立よりて見る花の木陰に。大かた此國は。花もまださかず。たゞこのいとざくら。あるはひがん桜などやうの。はやきかぎりぞ。所々に見えたる。是よりなだらかなる松山の道にて。けしきよし。此わたりより名張のこほり也。いにしへいせの国に。みかどのみゆきせさせ給ひし御供に。つかうまつりける人の北の方の。やまとのみやこにとゞまりて。男君の旅路を。心ぐるしう思ひやりて。なばりの山をけふかこゆらんとよめりしは。【万葉一に わがせこはいづくゆくらんおきつものなばりの山をけふかこゆらん】此山路の事なるべし。やうやう空はれて。布引の山も。こし方はるかにかへり見らる。
  此ごろの雨にあらひてめづらしくけふはほしたる布引の山。この山は。ふるさとのかたよりも。明くれ見わたさるゝ山なるを。こゝより見るも。たゞ同じさまにて。誠に布などを引はへたらんやうしたり。すこし坂をくだりて。山本なる里をとへば。倉持となんいふなる。こゝよりは。山をはなれて。たひらなる道を。半里ばかり行て。名張にいたる。阿保よりは三里とかや。町中に。此わたりしる藤堂の何がしぬしの家あり。その門の前を過て。町屋のはづれに。川のながれあふ所に。板橋を二ッわたせり。なばり川やなせ川とぞいふ。いにしへなばりの横川といひけんは。これなめりかし。ゆきゆきて山川あり。かたへの山にも川にも。なべていとめづらかなるいはほどもおほかり。名張より又しも雨ふり出て。此わたりを物する程は。ことに雨衣もとほるばかり。いみしくふる。かたかといふ所にて。
1-60    長皇子御歌
暮相而 朝面無美 隱爾加 氣長妹之 廬利爲里計武
宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ
4-511    幸伊勢國時當麻麻呂大夫妻作歌一首
吾背子者 何處將行 己津物 隱之山乎 今日歟超良武
我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
8-1536    縁達師歌一首
暮相而 朝面羞 隱野乃 芽子者散去寸 黄葉早續也
宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早繼げ

註釋、43、60番歌、特になし。
管見、43番歌、特になし。
拾穂抄、43、60、1536番歌、特になし。
代匠記初精、43、60、1536番歌、特になし。
童蒙抄、1536番歌、特になし。
僻案抄、43、60番歌、特になし。
万葉考、43、60、1536番歌、特になし。
略解、43、60、1536番歌、特になし。
楢の杣、60番歌、出立の次の日。40番歌、特になし。
攷證、43、60番歌、特になし。
古義、43、60、1536番歌、特になし。
檜嬬手、43、60番歌、特になし。
安藤新考、43、60番歌、特になし。
近藤註疏、43、60番歌、特になし。
木村美夫君志、43、60番歌、特になし。
伊藤新釈、43、60番歌、特になし。
井上新考、60番歌、帰路の歌。43、1536番歌、特になし。
折口口訳、43、60、1536番歌、特になし。
山田講義、43番歌、往路に詠んだ。60番歌、特になし。
鴻巣全釈、43、60、1536番歌、特になし。
總釈、43番歌、歸路…と推量してゐる…。60、1536番歌、特になし。
菊池精考、43番歌、燈に歸路と見てゐるのがよからう。60番歌、特になし。
金子評釈、43番歌、必ず復路と見るべきである。60、1536番歌、特になし。
窪田評釈、43番歌、帰途として釈している。60、1536番歌、特になし。
武田全註釈、43番歌、勿論帰途の作…。60、1536番歌、特になし。
佐佐木評釈、43、60、1536番歌、特になし。
私注、43、1536番歌、特になし。60番歌を帰路とする。
大系、43、60、1536番歌、特になし。
沢瀉注釈、43番歌、名張市の西、大和堺の山をさした…。往路…。60、往路福路どちらも言える。1536番歌、特になし。
古典全集、43、60、1536番歌、特になし。
新潮集成、43番歌、名張の山を大和伊賀国境の山とする。60、1536番歌特になし。
全訳注原文付、43、60、1536番歌、特になし。
全注、43番歌、名張が大和の東限で、この地の山を越えると異郷伊賀の国だったからである。60、1536番歌(井手担当)、特になし。
新編全集、名張の山、名張市西方の山をいうか(附録)。43、60、1536番歌、特になし。
釈注、43番歌、「名張」は畿内の東限で、この地の山を越えると異郷の伊賀の国になる。60、1536番歌、特になし。
稲岡和歌大系、43番歌、名張の山を大和伊賀国境の山とする。60、1536番歌特になし。
新大系、43、60、1536番歌、特になし。
阿蘇全歌講義、43、60、1536番歌、特になし。
全解、43、1536番歌、特になし。60番歌を帰路とする。
奥野健治、萬葉三國志考(1947.4.10)、なばりのやま、榛原から青山峠までの全体、更に限れば青山峠。 これについてはすでに言及した。それにしても、どの注釈書からも全く言及されないのは不思議だ。奥野と言えば大変有名なのに。
   飛鳥→鳥見山公園まで14.77キロ
  鳥見山公園→県境まで12.75
    県境→名張駅まで6.7
  名張駅→青山14.01
青山→峠6.8
飛鳥から榛原まで約15キロ、飛鳥から名張まで約34キロ、飛鳥から青山峠まで約55キロ。
阿蘇全歌講義、朱鳥六年三月三日 朱鳥六年は、持統六年(693年、藤原遷都は694年)。朱鳥は、日本書紀では、天武十五年に改元してこの一年だけをいうが、万葉集では、持統天皇の時代をいうのに使われている。三月三日は、現行暦の、三月二十八日に当たる(『日本暦日原典』による)。
太陽暦3月28日なら、日は長い。飛鳥最後の歳の693年だから、出発地は飛鳥で、名張までの距離は約35キロ。長いが、時速4キロとして、約8時間半、休憩を入れたら10時間はかかる。朝8時に出たとして、夕方6時に着く。まだ足元は充分に明るい。それに榛原、名張間にてごろな宿泊地はない。疲れても翌日は青山峠の登りもほとんどなく、あとは下り一方で、伊勢平野に出たあたりで(川合高岡あたり)泊まったのだろう。